巨大母船「イカスミ」はイカの形を模していた。
光の影響を受けにくい船体は宇宙に溶け込みほぼ一体化している。実際のイカのように脚が10本あるわけではないが、ここは10個のコミュニティから等しい人数の乗組員で構成されていた。とはいえ全員が船上にいるわけではなく、実態は本土にいるが、通信のみで搭乗しているものも何人かいる。実態すら持たないものもいる。人類はもはや元の形を保ってはおらず、幾多の戦争や天変地異、疫病、それらに対する進化や医学を経て、2本ずつの手や脚を放棄した。肌の色からも自由になった。性別の判別も難しくなりそれらが話題になることすら無くなった。
それぞれが自分の先祖をたどることすら難しいほど混乱した時代が過ぎていき、国家は消滅した。経済も形を留めることが難しくなったので人々はそれらがただ、自分たちがいくら姿を変えても変わらない血管の中の血と同じように、詰まることなく流れていくことだけを望むようになった。
アヤセは「イカスミ」の乗組員である。おそらくニホンというかつてあった国家に自分のルーツがあるだろうと親から聞かされている。国家という言葉に人々は甘い幻想を抱き、骨董品を眺めるようにロマンチックな想像をするようになった。アヤセは5つある脇から生える真っ直ぐな黒髪を毎日櫛でとかすことを欠かさなかった。その艶で美しさを主張したというのを聞いたことがあるからだ。
脇から生える髪の黒さ。
そのDNAに左右される儚いものをよりどころにするニホンの考えを、アヤセはとても礼儀正しい人々の、こっそり隠されたエゴのように感じて愛おしく思うものだった。今国家や人種を失った人々は、それぞれが好むコミュニティに属することによってどこかに自分の居場所を定義していた。コミュニティを育てることが全人類の生業となった。それが人類の信仰であり、経済だった。
所属の証明はNFTによってなされていた。それらはフルオンチェーンで刻まれていて、証明書として強固かつ、制限なしに所有したり交換することが可能なため、人々はクリエイティビティのもとにいつでも平等でいることができた。
アヤセもクリエイターの一人だ。数あるコミュニティの中には、全てのメンバーがクリエイターで絶え間なく創作を続けていくものもある。伝統的なドットアートを職人的に刻むただ一人の教祖を称えるようなコミュニティもある。
アヤセはイカを造形するクリエイターだった。昔、人類が何にイカを使っていたかは、もはや誰にもわからない。脚が10本あること、眼や体やその必要な機能に比べて異常に大きいこと、感情によって色を変えたことなどがわかっているが、共に暮らしていた記録は残っていない。ただイカを模した埋蔵品はいくつか見つかっており、人類が愛し執着していたことは明らかだった。
謎多きイカの魅力にひかれてイカのアートを作り出すコミュニティ、アヤセはそこを自分の居場所として、日々イカのアートを刻み、そしてコミュニティが作り出すイカのアートを収集することに熱狂して過ごしていた。
今日は極めて稀に発見されるイカの書物が見つかったため、コミュニティは騒然となって、その話題で持ちきりだった。イカを捕らえるために使った道具。エビのような形の。それもニホンで作られた…その話は瞬時にエビモンスターのコミュニティにも伝わり、双方のコミュニティ同士で激しく意見が交わされ、エビモンスターの由来にすら激震をもたらした。
イカを捕らえる、ということが激しくイマジネーションを刺激したので、アヤセはその夜早々に部屋に戻った。イカの太くしなやかな触手が、エビの細いカリカリとした脚を絡めとることを想像してみる。自分の5本の腕は、白くてとてもなめらかだ。もしかしたら少しイカに似ているかもしれない。
そう思いながら部屋の飾り台の上に鎮座するカラフルなドグーに視線を移す。ドグーは人類の文明が始まる頃から作られ親しまれ続けてきた。全てのクリエイションの始まりを象徴しており、生まれた赤ちゃんにはドグーを贈るのが定番とされている。そして何より、その姿は原始の頃の人間にとても似ているそうだ。事足りなそうな2本の手足。負担がかかりそうな細い腰。もはやその元にの姿には誰も戻りたくはないが、それでも何か強い憧れが腹のそこから湧き上がるのを感じ、人々はドグーを愛してやまないのである。